宇都宮地方裁判所足利支部 昭和38年(タ)1号 判決 1967年2月16日
主文
一、原告と被告長和子とを離婚する。
二、原告と被告長宗助及び同長マツとを離縁する。
三、原告と被告長和子間の子浩臣の親権者を被告と定める。
四、訴訟費用は被告等の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は、主文第一、二、四項と同旨の、及び原告と被告和子間の子浩臣の親権者を原告と定める旨の判決を求め、その請求の原因として別紙のとおり陳述した。
(立証省略)
被告等訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、「原告主張のとおり原告と被告和子とが結婚式を挙げて同棲し、昭和三十五年四月十八日被告宗助、同マツと原告との養子縁組届をなすとともに原告と被告和子との婚姻届をしたこと、原告と被告和子との間に昭和三十六年一月一日長男浩臣が出生したこと、被告宗助、同マツ間には男子がないことはいずれもこれを認める。その他の原告主張の事実はすべて否認する。原告は婚家を無断飛び出して被告等を遺棄しておきながら、被告宗助が口やかましく原告の行動を掣肘するとか、被告和子が思いやりがないとか、全く逆な事実を捏造して被告等を非難しているものである。」と述べた。
(立証省略)
請求の原因
原告は訴外井野口武夫の媒酌で、昭和三十五年三月七日被告和子と結婚式を挙げて右和子の両親で質商を営む被告宗助及び同マツ方で事実上の夫婦生活に入り、同年四月十八日被告宗助及び同マツと養子縁組をなすと同時に、被告和子との婚姻届をした。原告と被告和子との間には、同三六年一月一日出生した長男浩臣がある。
被告宗助夫婦には男子がなくて娘和子に婿を物色中のところ、昭和三十四年十一月被告宗助夫婦及び和子は右井野口武夫から原告を紹介されるや、ひと目で原告に惚れこみ、原告の婿入を熱望し、原告が父窪周一郎らの反対で必ずしも乗り気でなかつたのを、宗助が口をきわめて説得し、足入れや挙式の日取等も殆んど一方的ともいうべき熱意でとりきめるという打ち込みようであつたから、原告は宗助の人柄にひかれて被告方へ婿として迎え入れられたものであつた。
ところが、いざ被告家に入つてみると、宗助の人柄が原告が婚前に感得したものとは全く正反対で、世間ていは口上手で大変ていさいが良いが、家庭内ではすこぶる口うるさくて神経が細く、原告の行動をいちいち掣肘するばかりでなく、原告の両親や親族らを故なく誹謗し、原告をして養家にとどまること能わざる心境に追いやり、他方妻である被告和子も亦事ごとに父宗助に追随して夫原告に対する思いやりに欠け、いつも面白からぬ空気が充満して、とうてい同居に堪えない状態の連続であつた。
一、昭和三十五年三月七日結婚式の当日、原告の姉アキの夫相場昇蔵が、原告を被告家に送りこんだ際、原告に、万吉頑張れ、といつて激励して帰つたあと、宗助は、「あの野郎は社会党だ。頑張れといつたのは養父を潰せというつもりだ。あんな非常識はない。俺の目の黒いうちは家の敷居は跨がせない。お前も相場の家なんか行くな。」と怒号したばかりでなく、翌八日被告家を訪れた原告の母サイに碌な挨拶もしないで、「きのう相場を向けてよこした上因縁をつけたのも、みんな名草(原告の実家を指す)の兄弟たちの指し金だ。松田の家(原告の姉須永ツネ夫妻のこと)以外の兄弟とはつき合えぬ。」と文句もならべ、同女をして驚いて早々に立ち帰らしめたり、翌々一〇日原告を伴つて被告方の親戚廻りをした際、足利市借宿町飯〓某方で、「こいつの兄貴に一人グズがいて、酒癖が悪くて手こずつた。」と放言し、結婚早々の原告の心を暗くした。
二、宗助は、媒酌人井野口武夫を理由なく毛嫌いして、原告に向つて、彼は何ひとつ仲人らしいことをしないのだから、仲人礼などやる必要はない、といい張つていたが、原告の実家からその非を諭されて渋々右井野口方へ仲人礼に行つたところ、たまたま原告の母サイが先着していたことを快しとせず、原告に対して同女を非難する言葉を投げつけた。
三、同年四月中旬頃になると、宗助は原告夫婦のことに干渉し始めた。原告夫婦は被告家の二階を寝室にあてていたところ、その頃の不詳日、午後十時半頃就寝しようとする原告に、「今日は和子と別に寝ろ。今日は和子をいじめるな。」とか、「今日は我慢しろ。毎晩一緒に寝るな。」とか、夫婦生活に水をさす言辞を弄したほか、別の日頃、宗助は、早朝起き出して未だ就寝中だつた原告らの寝室に無警告で闖入することが数回あつたので、原告はこれを防止するため室内から施錠すると、「錠をとりこわせ。どうせ作るなら二階の屋根から入られないように作り直せ。」と暴言を吐き夫婦生活を防害するのに、被告和子は原告から右のことで相談されても、父は怒るから何もいわない方がよい、とよそごとの如くあしらつて受けつけなかつた。
四、日常生活についてみると、結婚当初は、原告が掃除や雑巾がけをしようとすると、「みつともない。うちには女子がいるのだから何もするな。」と制止した宗助であつたのが、一か月も経過すると、反対に屋内外の雑巾がけから便所掃除まで命令するという豹変ぶりであつた。
五、宗助が機会ある毎に前出相場昇蔵のことを引き合いに出していい立てるため家庭内に不穏な空気が流れて来たが、同年四月中旬頃被告和子が父宗助にあて「もう少しわたしのことを考えてほしかつた。ほかに婿の口がいくつもあつたのだから、よく考えてもらいたかつた。万吉と一緒になつて後悔している。」という趣旨の手記を手渡したことがある。それを宗助から見せられて、原告は妻の愛情が冷却したことを感じ取り、暗沮たる気持になつて独り外出したことがあつた。
六、同年五月頃、宗助は家族らの面前で原告に「婿に来るとき親から小遣はいくらもらつてきたか。」と問い、原告がもらつて来ない、と答えると、「親である以上借金しても持たせてよこすのが当たり前だ。貯金はいくら持つて来た。どこにある。うちでは結納金を五万円も出したのに、お前のうちからの化粧代は少な過ぎる。あんな世間知らずの親はない。」と、原告のいたたまれない言葉を浴せたが、妻の和子は、父を諌止することも傷心せる原告を慰撫することもしなかつた。
七、同年七月中の不詳日、原告の姉酒巻タカが、被告和子と会い、原告を真面目な良い子だ、といつたことから、同夜宗助と和子が口をそろえて原告に向つて、自分の弟を賞める姉などどこにもいない、あんな変な姉はいない、といつて原告を責めたてた。
八、同年八月中の一日、被告和子の妹幸江が足利市中で、前記酒巻タカを訪れていた原告の母サイと出遭い、帰宅して父宗助にその旨を告げたところ、宗助は、近所まで来ていてうちに寄らぬ法はない、すぐに呼んで来る、といつて出かけたので、原告は宗助と母サイと喧嘩にでもなつては困ると思つて、和子と共に右酒巻方へ赴くと、宗助は右サイ及びタカに対して文句をならべ立てていた。すると和子がかたわらで原告に向つて、「あなたと一緒になつて一日として楽しいと思つたことはない。一日もさつぱりしたことはない。毎日あなたと一緒にいるのなら、死んだ方がましだ。」と、むしろ原告の方からいいたいことを口外した。心中憤りの極に達したけれどもその場の収拾をはかるため、原告は敢えてこらえた。
九、同年八月上旬の不詳日、原告が被告宗助の命を受けて、その夕刻頃媒酌人井野口武夫方へ中元に赴いた際、同家で夕食を供されることになり、電話で被告方へその旨を告げると、宗助及び和子は、あんなうちでよばれるな、と反対し、原告が既に用意されたことだから、というと、好きにしろ、と電話を切られた。原告とすれば、自分を婿に迎えるのにぜひぜひと頼んで右井野口を動かして媒酌の労をとらせた被告らが、故なく同人を忌みなにか事を構えようとするような態度に出ることは、耐え難い屈辱であつた。
十、同年八月七日頃から、原告は姉ツネの夫須永喜三郎の求めによつて被告宗助の許諾を得て、同人の編織業を手伝ううち、同月十四日夜八時に帰宅、就寝時になつて被告宗助は「毎日和子が心配している。和子がどうなつてもいいなら手伝いに行け。もし手伝いに行つてお前が病気か怪我でもしたら、松田のうち(右須永を指す)は何の保障してくれるか。金は一銭も出してくれないだろう。お前は松田のうちへ行つて何か甘い言葉でもかけられるとみんなうちのことを話してしまう。」と原告にからみかかつて、遂に右手伝を阻止した。宗助は原告が結婚式を挙げた当時には、右須永を、原告の婿入について一番親味になつて尽力した人であると称揚し、ああいう人にはどんな犠牲を払つても恩返ししなくてはならない、といつていたことを打ち忘れ、自から許諾を与えておきながら、恩人と目する右須永へのささやかな奉仕にけちをつける宗助の底意には、原告はただただ失望のほかなかつた。
十一、同年八月中の不詳日、毎日が面白くなくて、勤め先で残業して午後九時頃帰宅すると、宗助は、「今日遅くなつたのも名草の親達のいうとおりにしたのだろう。お前は兄弟のために踊らされている。相場昇蔵が頑張れといつたことをお前が実行しているのが今になつて漸くわかつた。感心だ。本当の俺の子なら、横ビンタをくれてから話すのだが、他人の子だからそうはゆかない。俺ほどしてやつた親はなかろう。オートバイまで買つてやつた。それなのにお前の親は自分の餓鬼に何をしてくれた。相場は社会党の党員のコチコチで、デモなどの先頭でワツシヨイワツシヨイする連中だ。お前の兄弟はスパイみたいだ。」と遅参した原告を説諭するでなくて、その親族らに対する理由も必要もない悪罵に終始し、原告が余りの暴言にあきれて抗するすべを知らず黙つていると、「お前はいつから共産党になつたのだ。」と迫り、さらに前出貯金のことや小遣のことに言及して果てるところがなかつた。
十二、前同日頃の某夜、先に就寝した原告に、あとから入室した被告和子は、「父がいつているからわたしはあなたとは別に寝る。」といいながら寝衣等を搬出し始めたので、「話があるから俺と寝ろ。」と申向けても、「父のいうとおりにする。」と聞き入れず室外に去つた。その後も同様のことが数回繰返された。
十三、同年九月中の不詳日、被告宗助が連日のように原告の親達や親族らを罵つたり、些細なことで原告に当たるので、原告はたまりかねて、親族らと話合つてくれるよう宗助に頼入れると共に、媒酌人井野口方へ赴こうとすると、宗助はオートバイの鍵を抜取つた上、一番古い自転車に乗つていけ、という。
翌日被告方で原被告双方の親族が会談した。席上媒酌人井野口は宗助に、「万吉夫婦の同衾を阻止したり、万吉をスパイ視したり、また事毎に相場昇蔵が結婚式当日万吉頑張れといつたことを持ち出して万吉にいいがかりをつけたり、親兄弟を誹謗したりするのでは、万吉を婿に欲しくないのだろう。それなら万吉を引取る。」と申向け、義兄須永喜三郎も亦右井野口に和したところ、宗助もこれに反撥、論争前後四時間に及んだ末、宗助が反省を約し、万一これに違背したときは、いかなる処置をとられても異議がないことを誓つたのであるが、その後半月足らずで右の誓いを破り、少しも恥じるところがなかつた。
十四、同年十一月二十日、原告が勤務先で恵比須講祝いの酒食をふるまわれて帰宅しようとした矢先、オートバイが故障したため遅れて午後十時過ぎ帰宅するや、宗助は、あんな会社へ行くな、オートバイがこわれる訳がない、と口うるさくからみ、終いには、「自分の家は士族だ。お前の家みたいな平民とは違うからつき合えない。」など、超時代的な悪罵を浴せ、被告和子もまた父宗助に加勢する始末で、原告はなんともやりきれない心地がしたけれども、妻が既に妊娠九か月位の身重であつたから、孫でも生まれたら養父も人並になつてくれるだろう、と思つて辛抱した。
十五、同年十二月二十九日被告和子は出井産院で長男浩臣を分娩した。同女が退院した後は、原告は浩臣のため朝晩湯タンポを調えてやつたが、日頃は水道の水を出し過ぎる、薪があるからガスは使うな、と細かいことをいう被告宗助が、昭和三十六年一月初の不詳日に、原告が早朝物置に於て火起こしをしているのを見、たまたま被告方に宿泊した、宗助の親戚に当たる老女の前で、原告に向つて、ガスがあるのだからガスを使え、何も寒い思いをして物置でやるには及ばない、とさも思いやりありげな、ていさいのよい言葉をかけ、その内悪外良の性格を遺憾なく露呈するのであつた。
十六、被告和子は出産当初から出乳乏しくて、長男浩臣の哺乳はもつぱらミルクに依存した。同年一月中の某日、原告がミルクを買い与えたところ、被告宗助は、お前が変なミルクを飲ませたから子供が腹をこわした、といつて原告を恥かしめた。誰が我が子にわざわざ不良なミルクを与えるか、と切歯する原告であつた。
十七、同年一月七日原告の母サイが浩臣のため七夜の衣服を持参すると、宗助は、「宮参りの産衣も作つてくれ。うちでは普通のものは着せられないから、一番上等のを買つてくれ。」と申出で、サイがこれを承諾すると、さらにたたみかけて、結婚の時に何も持つて来ないのだから、タンスを総桐の最上等のをもらいたい、といい、サイがこれも亦承諾し、自己の親族らで共同で買つて届ける、と答えると、宗助は、それでは受取る訳にはゆかぬ、と理屈にならぬ駄々をこねる偏狭ぶりであつた。
翌八日勤め先での終業後、原告はオートバイが故障したため、勤め先のオート三輪車を借りて帰宅、前日の紛糾の因をなした浩臣の産衣とタンスの問題を妻和子に相談しても親身に乗つてくれなかつたので、宗助に向つて、「実家も余り楽ではないし、産衣も上等なものを注文したのだから、タンスは後日でもいいのではないか。」と持ちかけたところ、同人は頭から馬鹿野郎呼ばりした上、「お前の親はお前を犬ころ同然なくれ方をしている。本当の親なら、子供が可愛いなら、田畑売り払つても借金しても買つてよこすのが当たり前だ。もともと俺が武ちゃん(媒酌人井野口を指す)の所へ行つたとき口をすべらせたのが悪かつたが、本当の親ならこつちで断つてもひと通りの物を持たせて来るのが普通だ。お前の実家はテレビも入つているのだから、タンス位よこせぬことはない。そんなこというならお前の親が何というか聞いて来い。」と怒号した。宗助は、原告が婿入するに際してその持参するべき所持品につき相談した時には、「唯からだだけ持つて来てくれればよい。荷物をもらうのではないし、持つて来ても置場に困る、うちには何でもあつて不自由しない。」と再三再四広言していたので、原告はこれをまに受けて、洋服タンス、布団、座布団、机、椅子、下駄箱、ラジオ、アイロン、傘、靴、下駄、重箱、急須、洋服類、下着等を持参したのに、今や前言を翻して、持参品の少ないことを口汚く非難するばかりか、原告の親達を罵倒する宗助を見て、遂に忍耐の極に達し、被告和子に、あんなわからずやの親とは暮らせないから、お前もよく考えて俺の所へ来い、といい捨て、下着類のみを携えて家を出ようとすると、被告宗助夫妻が原告の着衣を剥ぎ取ろうとして原告の胸部を蹴上げたのを避け、オート三輪車を駈つて実家へ逃げ帰つたのである。
十八、被告宗助中心の被告家で、叙上の如き同人の言動がある以上、原告としてとうていここに留まること能わず、加うるに養母マツは勿論、妻和子が原告に対する掩護の手をさし伸べようとする意欲の片鱗だに見られぬ、全く救いのない生活の連続とあつては、被告らとの婚姻並に縁組を継続し難い重大な事由が存する、といわなければならない。いわんや、子まである和子との夫婦関係を断絶させるに忍びないので、同女に対して、父母と別居しても親子三人の家庭を築くべき決意を申送つても同女の容れるところとならなかつたに於てはなおさらである。
十九、原告は、同年四月被告らを相手取つて家庭和合の調停を申立て、調停期日五回に及んだが、被告らは、原告夫婦の同居は認めぬ。子供は渡せないから成年に達するまでの養育費を支払え、離婚離縁には応じられぬ、と主張して譲らず、同年十月調停不調となつたまま現在に至る。